愛知万博20周年記念事業

開催期間
2025325日〜925
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トピック

エッセイ募集「愛・地球博とわたし」のA部門・選考結果について

エッセイ募集「愛・地球博とわたし」のA部門に応募いただき、ありがとうございました!

全74作品の応募があり、厳正に選考した結果、5作品を選考いたしました。

なお、受賞作品以外にも、素晴らしい作品を多数応募いただきましたので、受賞作品5作品に加え、応募いただいた作品の中からいくつかの作品を紹介させていただきます!

A部門・優秀賞(全5作品)

佐藤まどかさん
推薦:愛知万博20周年記念事業実行委員会

「アザラシが教えてくれたこと」

 20年前、私は「アザラシ」を飼っていた。もちろん、実際のアザラシではなく、パソコンで遊べるシミュレーションゲームの中での話だ。それは、愛・地球博に出展された日立グループ館のコンテンツのひとつで、ユーザーが育成することを通じて、絶滅の危機に瀕する動物の生態を学ぶというゲームだった。3種類から選べる中で、まん丸な目が当時飼っていた犬に似ていると思い、私は「チチュウカイモンクアザラシ」を育てることに決めた。

 当時小学6年生だった私は、そのアザラシを「ナミちゃん」と名付けた。毎日餌を与え、汚れた海水をきれいにし、病気のときは治療をして、ナミちゃんは立派なアザラシへと成長していった。私が熱心に世話をする姿を見た両親は、優しく「日立館に連れて行ってあげる」と微笑んだ。

 日立グループ館はジオラマと3DCG(立体視映像)を融合した技術を活用し、パビリオンのメインショーで来場者がスコープを覗くと、リアルに再現された希少動物達の世界が目の前に拡がるそうだ。
そこで育てたナミちゃんにも会えるらしい。そのためにはナミちゃんを海に帰す必要があり、別れが悲しかったが、苦渋の決断でさようならを告げた。

 念願の万博へ行く日を迎えた。夢見心地でパビリオンに向かい、ついにナミちゃんと再会した。目の前を泳ぐ元気そうなナミちゃんを見て、思わず感動して涙がこぼれそうになった。その瞬間、インターネットの世界でも海がつながっていると子ども心に感じたことを、今でも鮮明に覚えている。

 大人になった今も、私は海の生き物が好きだ。スキューバダイビングのライセンスも取得し、海の魅力にますます引き込まれている。悲しいことに、ナミちゃんと同じ「チチュウカイモンクアザラシ」は、今も絶滅の危機にさらされているという。私にできることはほんの些細かもしれないが、世界中で暮らす海の生き物たちが誤って人間のゴミを食べないように、ビーチを掃除して帰る。

 ナミちゃんは、絶滅危惧種の存在や命の尊さ、そして海がつながっていることを私に教えてくれた。目の前の海も、ナミちゃんと同じ種類のアザラシが暮らす地中海に繋がっていると思うと、胸が熱くなる。海を見るたびに、ナミちゃんが教えてくれたことが、心の中で生き続けているのを感じる。

井野和真さん
推薦:野外民族博物館リトルワールド

2005年の3月を、今でもよく覚えている。
7歳の小学生男子にとって、絶対安静を強いられる3か月間は、日常のすべてが退屈に支配されていた。
誕生日を1週間後に控えた私は、桜が咲き始めそうな山々を窓から望む病室で、テレビの画面を眺めていた。
ニュースの話題は、愛・地球博一色だった。退屈な日々に飛び込んでくる愛・地球博の映像は、私の胸を高鳴らせてくれた。

大昔に生きていたマンモス、磁石の力で浮くリニアモーターカー、乗って体重をかけるだけで進むセグウェイ、そして未知の国々のパビリオン。
何もかもが私を惹きつけた。
「愛・地球博に行きたい。どうしても行きたい。」
病気が治るかどうかも分からず、ベッドから離れて歩き回ることすら許されなかった私にとって、愛・地球博はまさに希望そのものになった。
入院から半年後、ようやく退院することができた。

初めて訪れた万博は、夏の暑い日だった。グローバルループを歩くときに感じたミストが心地良かった。
実際に目にしたマンモスの迫力は、テレビで見ていた映像よりもはるかに荘厳で、その存在感に気圧された。
マレーシア館のスコールは、自然の脅威を感じた。
カナダ館で見たオーロラは、自然の雄大さを教えてくれた反面、どこか恐ろしくもあり、それがまた魅力的だった。
「いつか本物を見てみたい」と強く思った。
他にも多くのパビリオンを巡った。どの国にも独自の文化があり、その多様性に私は心を奪われた。

今の自分の生き方は、愛・地球博の体験に少なからず影響を受けているはずだ。
あのとき世界の文化に触れたことが、世界への扉を開いてくれた。

あれから20年。
私は今、さまざまな国の人たちと一緒に働いている。カナダ、台湾、ネパール、ベトナムなど。
あの時訪れたパビリオンの国々も含まれている。
当時想像していた人々の暮らしは、今では実際に彼らから直接聞くことができ、スマートフォンで写真や動画も見ることができる。

愛・地球博は、当時の最先端技術やロボットを通して、「こんな未来が来たらいいな」と思わせてくれた。
そしてこの20年で、想像以上のスピードで、より素晴らしい“未来”がやってきた。

これからは、その“未来”をつくっていく側として、もっとワクワクするような社会を次の世代に繋いでいきたい。20年前、私に希望をくれたように。

藤井絵美さん
推薦:総合地球環境学研究所・上廣環境日本学センター

あの頃私は大学院生だった。教授に頼まれて、万博会場でイベントの受付ボランティアをしていた。
スタッフパスを首から下げて、出来たばかりのリニモに乗って、わくわくしながら初めての万博会場に足を運んだ。
幼いころから見慣れた青少年公園はまるで別世界になっていた。

大学時代の友人たちも、万博会場で働いていた。リニア館のスタッフをしていたTちゃんは立ち姿も美しく、私たちは一緒に写真を撮ってはしゃいだ。銀行の出張所で働いていたMちゃんは、お客様を相手に、大学時代とは違う凛とした姿を見せていた。

遠距離恋愛をしていた彼氏も訪れて、親友カップルと並んだ人気のドイツ館。笑ってはしゃいで、長い待ち時間も苦にならなかった。絶品だったインド館のレストランのナン。インドカレーとナンとラッシー。何度も通って最後の最後まで食べた。今もあれ以上の味に出会えずにいる。

ボランティアの合間にも会場を歩いては、お気に入りのパビリオンやレストランを見つけた。世界旅行をしているかのようだった。

人で賑わう、明るく華やかな万博会場。20代だった私たちは何度そこを訪れただろう。「万博にご飯食べに行く?」そんなノリで行ける場所でもあった。
仕事の場として、デートの場として、友達との語らいの場として、万博の半年間を楽しみ尽くした。

あの年、父は愛知万博の会場を背にして言った。「大阪万博楽しかったなあ。あの頃は美大生だったんだ。岡本太郎の太陽の塔に感動したなあ」

父の青春が大阪万博と共にあったように、私の青春は愛知万博と共にある。
あれから20年。「ねえ、ママ、今度大阪で万博をやるんでしょ。昔、愛知県でも万博があったんだって」娘が言った。「愛知万博ね。ジブリパークのあるところでやったんだよ」そう答えながら蘇る愛知万博の記憶は眩くきらめいている。それは二度と戻らない、そしてかけがえのない私の青春そのものだ。

服部可奈子さん
推薦:愛知県国際交流協会

「万博を支えた人々への感謝」

 愛・地球博が開幕した当時幼稚園児だった私には、万博の全体像やテーマを理解するにはやや幼かった。しかしながら、地域の至る所でモリゾーとキッコロを見かけ、万博がひときわ目立つイベントであったことは今でも印象に残っている。幼稚園ではダンボールで作ったゴンドラで遊び、パビリオンで買ってもらったキーホルダーを通園バッグにつけていた。自分や友達の訪問回数を数えながら登園した記憶もある。このように当時の子どもにとっても「ばんぱく」は魅力的な世界そのものであった。
 このように人々から愛された愛・地球博は、父が働く場所でもあった。私の父は愛・地球博の現場スタッフとして事前準備や運営業務を担っていたのだ。特に来場者が増える土日は、父は「げんばにいく」と言い出勤していた。父が「げんば」で何をしているのか、当時の私には全く想像がつかなかったこともあり、万博期間中は父親と遊べず少し寂しい気持ちがあったのを覚えている。そんな中、幸運にも父が現場で働く姿を見る機会があった。幼稚園の行事で愛・地球博を訪れた時のこと、スタッフカードを首にぶら下げた父と会場内で会ったのだ。ほんの一瞬の出来事であったが、この時確かに、自分の父親が愛・地球博の現場で仕事をしていると理解したのである。みんなが好きな愛・地球博が父の職場でもあることを知った時の誇らしさ・嬉しさは今でも忘れることはない。
 愛・地球博という大きなプロジェクトで父が現場スタッフの一員として働いていたように、多くの人が楽しみにしているイベントや行事には、必ずそれを支える人が存在する。このことは日常生活のあらゆるところで実感できるだろう。現在大学生である私は、デパートのケーキ屋さんでアルバイトをしている。繁忙期であるクリスマスは、スタッフ総出で早朝からケーキの販売準備を行った。寒い中朝早く出勤するのは大変であったが、世の中のクリスマスを少しでも支えられたことに悦びを感じた。こうしたやりがいはもしかすると当時の父親が抱いていた感情に近いのかもしれない。愛・地球博から20年が経った今、父と晩酌をしながら当時の話を聞いてみたいと思う。

山本あさひさん
推薦:愛知県立大学

当時、私は中学3年生でした。思春期まっただ中で、決して優等生とは言えない毎日を過ごしていました。ただ、英語は好きで、英会話教室に熱心に通っていました。
愛知万博が人生の転機となります。母が応募していた「愛・地球博ホームステイ企画」で、チュニジアから来た同い年の少女・メディアムが1週間ホームステイすることになりました。英語が話せるのは家族の中で私だけで、彼女との英語でのやり取りは、私にとって初めての経験でした。
日本語が通じないメディアムとの生活は、驚きと発見の連続で、到着初日にちらし寿司でおもてなしをしたものの、食べられたのはサラダと果物だけでした。遠くアフリカから来た彼女にとって、和食はなじみがなく、体調も崩してしまいました。病院に連れて行くと、言葉の壁がまた立ちはだかり、英語力の未熟さに悔しさを感じました。
徐々に心が通い、メディアムとともに愛知万博に足を運ぶ日々が始まりました。今でも、メディアムと私、両親、そしてモリゾーとキッコロが並んだ記念写真が、我が家に飾られています。瀬戸市の全中学校で行われたこのホームステイは、交流会もあり、他の中学の生徒との関わりも新鮮でした。愛知万博の経験は、後の私の活動に影響を与えます。
「英語が通じず悔しかった」という体験が私を突き動かし、高校は英語科へ進学しました。看護師になった私は国際病院で勤務し、今は地元瀬戸市に戻ってきました。
そして今年、私は「瀬戸被爆ピアノコンサート」の主催者を務めています。実はこの被爆ピアノ、20年前の愛知万博瀬戸会場のオープニングでゆずの北川悠仁さんと共演した歴史があります。その調律師・矢川光則さんから「また瀬戸にピアノを運びたい」と聞いた時、私の中で新しい使命が芽生えました。
「未来へ紡ぐ、希望の架け橋。」
この想いのもと、瀬戸市や近隣の中高生たちと一緒に、平和と命の尊さを考えるコンサートを企画中です。音楽を通して、親しみやすく平和のメッセージを届けたい、そして瀬戸市に、かつて世界博覧会が行われた誇りや郷土愛を根づかせたいと願っています。
先日、数年ぶりにメディアムからSNSで連絡が来ました。彼女は今、フランスの大学院で学び、日本の企業に就職したいと言ってくれました。
愛知万博がつないだ縁が、今もなお続いていることに感謝しながら、次は私が、子どもたちの未来のきっかけをつくる番だと感じています。

優秀賞以外の地球大交流・未来共想プロジェクトセレクション作品

中村渉さん

2005年、愛・地球博が開催された年、私は瀬戸市に住む大学生だった。万博が地元で行われることにとても興奮したことを今でも良く覚えている。海外に行ったことがない私にとって、世界中から集まった人々やパビリオンの数々はどれも刺激的で何度も会場に足を運び、開催期間中に30回以上は訪れていたと思う。

愛・地球博は私の人生において忘れられない特別な場所だ。当時付き合っていた恋人と訪れるたびに、新しい発見があった。未知の国の料理を味わった驚き、未来の技術に夢を膨らませた時間。それらすべてが、二人の関係をより深めてくれたように思う。

それから20年が経ち、彼女は私の妻となり、小学生の息子を育てる親となった。愛・地球博の会場はモリコロパークとして整備され、休日には家族で出かける、そんな憩いの場となった。

当時は「自然の叡智」というテーマを深く考えることはなかった。しかし今、親となり、子どもの未来を思う立場になってみると、あの万博で提示されていた持続可能な社会の大切さを改めて実感する。限りある資源をどう使い、地球環境を守っていくのか。それは決して未来の話ではなく、今、私たち大人が真剣に向き合うべき課題なのだと気づかされる。

そして2025年、「愛・地球博20祭」が開催される。まだ息子には難しいかもしれないが、私たちが住む地球のために何ができるのかを少しでも伝えられればと思う。そして、持続可能な未来のために、私たち一人ひとりが何をすべきかを考え、実践するきっかけにしたい。20年前の万博が私に影響を与えたように、次の世代の子どもたちにも、この経験が大切な何かを残してくれるはずだと信じている。

岡昌子さん

2005年、大学生だった私は「愛・地球博」のボランティアスタッフとして活動した。環境問題や持続可能な社会をテーマにしたこの万博に、世界中から多くの人が集まる。そんな国際的な場に携われることが嬉しく、誇らしくもあった。

私の担当は、海外からの来場者の案内だった。英語は得意ではなかったが、必死に身振り手振りで説明し、通じたときの喜びは格別だった。特に、ある家族連れの観光客が「あなたのおかげで楽しい思い出ができた」と言ってくれたことは、今でも心に残っている。文化の違いを超えて人とつながることの素晴らしさを、この万博で実感したのだ。

「自然の叡智」をテーマにした展示も印象深かった。未来のエネルギー技術や環境保護の取り組みを目にし、持続可能な社会を実現するために私たちができることを考えるきっかけになった。それまでの私は、環境問題に関心はあっても「誰かが解決するもの」と思っていた。しかし、万博での経験を通じて、「一人ひとりの行動が未来を変える」と実感し、ボランティア活動を続ける決意を固めた。

それから20年。私は社会人として働きながら、子どもたちと環境問題について考える機会を持つようになった。「愛・地球博20祭」に集う若い世代には、ぜひ世界の多様性や環境問題に触れ、自分の未来を考えるきっかけにしてほしい。そして、あのとき私が感じたように、「自分の行動が未来をつくる」と信じて、一歩を踏み出してほしいと願っている。

濵岡正行さん

「私がしたいことを見つけられた愛・地球博」

 私にとって愛・地球博とは、自分のやりたいことを見つけられた場所、人生の方向性を示してくれた特別な185日であった。
 当時、高校生だった私は将来の進路や目標も定かではなく、特に英語を話せるわけでもなかった。しかし、誰かの役に立ちたいという思いと声の大きさには自信があった。そんな中、愛知県で万博が開催されること、ボランティアの募集があることを知り、両親に相談して応募した。後日受けた研修では、ボランティアとして自身にできることを精一杯しようという思いが高まった。
 万博が開幕し、いよいよボランティアとしてのデビュー。緊張よりもワクワクの方が大きく、国内外から多くのゲストが来場していたようすから当時の万博に対する期待と関心の高さが伝わった。エントランスを抜けてお目当てのパビリオンに向かおうとしているゲストに、私はボランティアとしてガイドマップを配り続けた。このほか、ベビーカーの貸し出しや会場の巡回、ゲストに対して習いたての英語で何とか場所を伝えたり、多言語を話せるスタッフにつないだりと他のスタッフの方と連携してできる限りのおもてなしをさせていただいた。5日間のボランティア活動では、毎回世代の違うさまざまな方と共に活動をした。どの活動でも「自分らしさを生かして活動できた」ことが今の私の大きな自信となっている。活動を通して私は、「一人一人の興味や関心、特技を生かして協力することで、大きなものごとを成功させることができる」ということを肌で感じることができた。このときの体験を忘れず、誰かの人生をサポートできる仕事がしたいと思い、大学は教育学部に進学した。
 現在、私は理科の教員として中学校に勤務している。3年間の授業の中で自然科学や環境に関する内容もある。これらの分野に強い関心を持ったきっかけは、愛・地球博でのボランティア活動である。近年では、SDGsの項目として誰にでも分かりやすく、親しみやすい形でアプローチされている。当時、会場で来場者は9種類、関係者は17種類のゴミの分別をしていた。限りある資源を有効に活用するためには画期的な取り組みであり、ゴミの分別の大切さを伝える生きた教材として現在も授業で活用している。自分自身の生きる道を示してくれた愛・地球博での人との出会いやボランティアとしての体験は、これから先もずっと私にとって一生の宝物なのです。

夏目匡貴さん

「万博は生きるエネルギーをくれる祝祭空間」

あの185日間は、私の人生で最も濃密で楽しい日々でした。
愛・地球博で、私は博覧会協会のマルチスタッフ(会場案内係)として働き、業務を通じて、そしてプライベートでも大いに楽しみました。世界中の人々がこの会場に集い、学び、踊り、飲み食いし、交流する光景は夢のようでした。他では見ることのできない最新技術や伝統文化に触れるイベントが毎日のように行われ、毎日違う景色が見られました。岡本太郎が万博を「お祭り〜祝祭空間〜」と定義したように、私にとっても万博はまさに祭りでした。会場ですれ違う人々からはポジティブなオーラが溢れ、何もしなくてもそこにいるだけでワクワクするような空間でした。外国館で買ってきたスナックとビールを飲み、愛・地球広場の人工芝に座って寛ぎながら、ショー「精霊たちの森林舞踏会」を見るのが夕方のお気に入りの過ごし方でした。

実は、私は発達障害の当事者で、高校中退、不登校、ひきこもりを経験しています。
万博で働く前、私は不登校、高校中退、ひきこもりを経てコンサートスタッフの仕事をしていました。万博の仕事は朝も早く(通勤のリニモ乗車待ちもあり)、夏の猛暑、体力勝負の場面もありましたが、無事に乗り切ることができたのは、万博という空間が楽しさに溢れていたからだと思います。素晴らしい同僚たちと共に働く経験をし、自分の世界観が広がりました。その後大学に行って勉強したいと思い、フリースクールのような塾に通い、そこでの人間関係は今でも続いています。その後も順調だったわけではなく、発達障害の診断を受けるなど紆余曲折を経て、現在は税理士事務所と障害福祉の仕事、ひきこもり支援にも携わっています。

万博は、テーマパークとも違う特別な場所です。友達と盛り上がって楽しむこともできますが、一人で静かに見学して楽しむことも、思い思いの過ごし方ができます。どんな背景や年代、属性を持つ人でも、誰でも受け入れる、非常に稀有な空間です。今また大阪で万博が開催されています。今回は私は純粋な観客として通い、その唯一無二の存在にまた夢中になっています。万博に行くためならちょっとくらいの困難は乗り越えられます。私にとって万博は、生きるエネルギーをくれる場所です。この魅力を一人でも多くの人に体感して欲しいと思います。

豊恵子さん

「古い絵はがき」

 将来への展望が広がる若かりし頃。念願のマイホームを建て、仕事への意欲もより一層増して希望に包まれていた。その頃、開催された愛知万博「愛・地球博」。夫と娘との家族三人でわくわくしながら会場へと足を運んだ。
 小学校低学年だった娘も、夫にとっても初めての万博体験。広大に広がる万博会場は来場者でごった返し、熱気と活気であふれていた。どれも素晴らしくデザインされたパビリオン、一日では見切れないさまざまな展示に心浮き立ち興奮していた。
 会場内で写した家族写真がある。緑のモリゾーをバックにベンチで撮影したもの。家のリビングに十数年もの間、クリスタルのフォトスタンドに入れて飾っていた。
 長い年月が流れたことを実感する。三人暮らしだった我が家に今、私は独り暮らし。夫は他界し、娘は既に自立し遠方で暮らしている。夫との別れから大きな喪失感に襲われ、過ごしてきた日々が幻のように感じられた。ひどく絶望する私に、娘は毎日のスマホ連絡に加えて、毎週かかさず手紙を送ってくれた。夫の死から三年余りの月日が経過するが、今も忘れることなく送ってくれている。カラフルな絵はがきが多かったが、先月、届いた絵はがきに思いがけず驚嘆した。
 それは“モリゾーとキッコロの森のおともだち”とマーク入りの愛・地球博の絵はがきだった。自然の背景写真に二つのキャラクターがかわいらしく描かれている。四角く空けられたスペースには細かい小さな字でびっしりと娘の手書き文字が書き込まれていた。
「懐かしいでしょ。今じゃ、よだれまみれのモリゾーのぬいぐるみが思い出。マンモスのキバを見たことも、観覧車も乗ったし……」
 二十年も経って「なぜ?」と驚いたが、フリマアプリで何枚もの絵はがきを購入した中の一部だったらしい。当時五十円の郵便料金に差額分の三十五円を三十円と五円切手一枚ずつ貼ってある。それから続けて送られてきて、私の手元には四枚の愛・地球博はがきがある。
 思い出は、幸せだった日々の過去の断片として色あせることなく存在し、時折ひょんな形で現れたりする。娘がちゃんと覚えていてくれた万博の記憶と絵はがきは私の心を震わせた。
 愛・地球博、あの頃まだ聞かなかったSDGsという単語も、今は一般的に広く知られつつあり、地球環境への意識や持続可能な社会や環境を目指すという世界的な取り組みは地球規模となっている。持続可能──、個人的にもできうる限り、そうありたいと願う。

小林霧子さん

「甘くて、手強いトルコアイス」

2005年、私は中学一年生だった。
学校行事の一環で、クラス全員で愛・地球博を訪れた。

開催前からテレビでは万博の特集が連日組まれ、世界各国のパビリオンや最新技術が紹介されていた。その中で、私の目を引いたのはある食べ物の映像。白いアイスが長く伸びる――そう、「トルコアイス」だ。
テレビの中でしか見たことのなかったそのアイスは、私にとって万博に行ったら絶対に食べたいものNo.1だった。

当日、様々な国の展示を横目に、私はまっすぐトルコアイスの屋台へと向かった。すでに長い行列ができていたが、汗をぬぐいながら並ぶ。
目当てはただ一つ「のびるトルコアイス」をこの手にすること。
ようやく自分の番が来て「トルコアイスを一つください」と言うと、屋台のお兄さんがニヤリと笑い、アイスをくるくる練り始めた。例の“渡すふりして渡さないパフォーマンス”が始まったのだ。

最初は楽しく笑っていたが、何度も何度もかわされるうちに、次第に笑顔が引きつってくる。私はただ早く食べたくて、じっと手を差し出していた。
お兄さんは終始涼しい顔。彼にとっては日常のパフォーマンスでも、こちらは人生初の真剣勝負である。ようやく手元に残ったアイスを握り締め、「もう取られまい」と、その場をそそくさと離れた。

一口食べると、冷たくて、不思議なもちもち食感。今まで食べたことのない美味しさだった……が、また並んで食べたいかと聞かれたら、少し考えてしまう。それくらいあの“やり取り”には疲れていた。

あれから20年。トルコアイスは、今ではどこでも見られるようになった。あの時感じた「欲しいものを手に入れるには、待つこと、耐えること、時に理不尽さにも付き合うこと」が必要だという感覚は、大人になってからの人生でも何度も味わってきた。
あのトルコアイスとの小さな攻防は、知らない国の文化と触れ合うこと、人と関わることの面白さと難しさを、子どもなりに体験した瞬間だったのかもしれない。

「自然の叡智」をテーマにした愛・地球博で私が得た一番の学びは、人と人とのコミュニ―ケーションもまた、知恵とユーモアでできているということだったと思う。そしてそれは今も、社会の中で誰かと向き合うたび、私の中で静かに息づいている。

山下浩美さん

「もしも月が無かったら」

 一枚の写真が居間に飾ってある。二十年前の愛・地球博での三世代、家族八人の記念写真。三菱未来館の「もしも月が無かったら」のパビリオンを背景にした思い出の写真だ。
もしも月が無かったら、地球はどうなっていただろう。地球はわずか八時間で自転し、風が吹く殺伐とした環境となり、危機的状況を迎える。月の無い恐ろしい世界と現在の素晴らしい地球環境やこの世に生きている不思議や奇跡をテーマとしたパビリオンだった。  
ちょっとしたことで、大きく環境が変わるということは一人の人生でも、例えることができる。一緒に写真に写っている両親。「もしも戦争が無かったら」大きく人生が変わっていただろう。満州から命からがら引き上げてきた父は、警察官となり、たくましく生き抜いた。
 端で写っている長男は、当時、中学三年生。三年後の大学入試で彼は、「もしもセンター試験に失敗したら」なんて考えもしなかった。しかし、結果は大失敗。希望の大学から遠く離れた国立大学への変更を余儀なくされた。センター試験の失敗が人生にこんなにも関わってくるのかと胸が痛くなった。長男の心の中は、いろいろな葛藤があったに違いない。そして自分が与えられた場所で、自分なりに輝くことを誓ったのだろう。大学入試から十七年後、長男は、憧れの食品会社の研究室で日々、新しい商品開発に頑張っている。
「もしも月が無かったら」は、スケールが大きいけれど、ちょっとした変化が起きても地球の環境は大きく変わる。ただ、人類は、変わりつつある環境を守っていこうと努力してきた。そして、現在に至っている。
 人生もちょっとした出来事から、大きく変わることもある。長男を通して、自分が置かれた状況に対して「もしも~だったら」その時こそ、現実を見つめ、強く生き抜いていく力の大切さを痛感した。
 彼は、「僕は、愛・地球博で覚えているのは三菱未来館の『もしも月が無かったら』だよ。」と笑顔で答えた。私たち家族の心の中で、二十年前の愛・地球博で体験したことが、今も生き続けている。

清水沙織さん

「あの時に見た未来」

 愛・地球博が開催された年、私は就職氷河期まっただ中の就活生だった。
 書類を50社以上送っても不採用が続き、ようやくたどり着いたある企業の東京本社での面接では、なぜ呼ばれたのか分からないまま、人格を否定され、怒号の飛び交う圧迫面接を受けた。
 完全に心が折れた私は、新幹線での帰路、京都の住まいまで耐えることができず、名古屋で途中下車してしまった。
『こんな世の中はもう嫌だ! 次の新幹線が入線してきたら飛び込んでやる!』
 そう決意しかけた私のうつろな目に飛び込んできたのは、ホームの売店に置かれていたモリゾーとキッコロのぬいぐるみだった。
 ――今、愛・地球博って開催中だっけ。ちょうど名古屋にいるし、冥土の土産に万博でも行ってみるか。
 そんな支離滅裂な思考に操られるようにして、私は次の瞬間、会場へ向かうリニモに乗っていた。
 長久手日本館の360度スクリーンに映し出された地球と宇宙に感動し、1万8千年前の姿のまま現れた冷凍マンモスから悠久の歴史を感じ、企業パビリオンで見たトランペット演奏ロボットや超巨大液晶ビジョンに驚いた。各国のパビリオンでは、初めて出会う世界の人々と触れ合った。
 現代社会に否定され、生きる希望の火が消えかけていた私に、愛・地球博は「今いる世界がすべてではない」と教えてくれた。
 それからというもの、就職活動を一時休止し、全てではないが、愛・地球博で訪れたパビリオンの国々を実際に旅した。
「とにかく就職を」と5センチ先しか見えていなかった私は、博覧会で垣間見た未来によって、もう一歩先を見据えることができるようになった。
 私がこの世界ともう一度向き合えるようになってから、20年が経つ。
 感化されて旅に出たときに出会った海外の人々とは、今も細く長くメールでの文通が続いている。
 無事に職にも就き、ありがたいことに同じ会社で長く働き続けており、良い伴侶と出会い、子どもにも恵まれた。
 通勤途中の駅には、あの万博で見た超巨大液晶ビジョンが、今は当たり前のように設置されている。
 自分がこの世界の何に貢献できているのかは分からない。
 だが、確かに、あの時に見た未来を、私は今、歩いている。

長田 佑美さん

「欠片を集めて」

当時小学生だった私にとって、愛・地球博は何よりも楽しいテーマパークでした。朝早くからリニモに乗り、入場とともに企業パビリオンに並び、様々な料理を食べ、各国のパビリオンでスタンプを集め、暗くなるまで遊んで帰りました。ランドセルにモリゾーのキーホルダーをぶら下げて、下敷きには万博の地図を模写して使う熱中ぶりでした。閉幕の日には、出口に掲げられた「ありがとう」の横断幕を見て、寂しくて泣いてしまったことを覚えています。
そんなただただ楽しかった万博が、たくさんの学びに溢れていたことに気が付いたのは、何年も後のことでした。テレビでカモノハシが出て来た時に、オーストラリア館の大きなカモノハシに登って遊んだことを思い出しました。オランダ館にはチューリップが咲いており、ヨルダン館には人間も簡単に浮かべる死海があったことも覚えていました。世界の国々にどんな場所や特徴があるのか、楽しく遊んでいる間に多くの"学び"に触れていたことに気が付いたのです。
大きくなって知識が増えていくと、気付きもさらに増えていきました。瀬戸会場から長久手会場への移動で乗った燃料電池バスが、水だけを排出して走れていた仕組み。何者なのか全くわかっていなかったNEDO館の正体。日本館などで見かけた「じぞくかのうな」という言葉の意味。何年もかけて、愛・地球博で手に入れた"学びの欠片"の答え合わせをしていくような感覚でした。
あれから20年。半年間で終わった万博の記憶はかなり薄れてしまい、寂しさも覚えます。ですが、そこで集めたものたちは確かに残っており、これからも続いていくのでしょう。

中野昭仁さん

 2005年2月…万博スタッフの研修が始まりました。場所は、名駅近くのとあるビルの中…運営内容や礼儀作法など、ほぼ1ヶ月に渡る研修期間でした。初日は、自己紹介などの顔合わせから…そして開幕間近は、現地での実地研修に…。
 2005年3月25日…開幕当日、雪の舞う異例のスタートとなりました。わたくしは、西ターミナル団体専用の入場券販売所のチーフとして、メンバーをまとめる職に就いていました。初日からトラブルが発生し、上司に相談するというのが続いていました。
 2005年4月・5月…メンバーと上司の助けもあり、徐々に落ち着きを取り戻すことが出来ましたが、その間には…離脱するメンバーもあり、自らも離脱…という考えが、過りました。かなり悩んだ時期でもありました。
 2005年6月・7月…時は解決するものであり、落ち着きも続いて、各ゲート(東・西・北・瀬戸)を訪問し、上司・チーフ・メンバーの意見を聞いたりすることにより、お互いを認識し合うことが出来ました。この頃でしょうか…すべての万博スタッフが、【おもてなし】を合言葉にして、この万博を無事に終わらせようという気持ちが一致していることに…。
 2005年9月…暑かった8月も無事に乗り越え、いよいよ閉幕が近づいているという認識…。やはり、駆け込み需要ということで、日々の入場者数は上昇して行く一方、一日だけ入場規制がありました。と同時に、苦情の嵐に…。他の部署でも、離脱したいというスタッフも…。垣根を越えてでも、最後まで頑張ろう!と…お互いに励まし合ったりして…。なにか改めて、すべての万博スタッフが、ひとつになったというのを感じました。
 2005年9月25日…愛知万博(愛・地球博)閉幕当日…朝早くから出勤するも、会場に近づくに連れて長蛇の列が…。この時に、今日で終わりなんだな…と。時を止めることも出来ずに、最後の時間に…。ポスターにも書いてありましたけど、『人生一度は万博だ。』確かに…自ら経験したことに、大変満足しています。そして、すべての方々に感謝の気持ちを込めて…。

 あれから20年…あの時に経験や体験したことは、今でも生活に役立っています。相手に対する【思いやり】【おもてなし】、上司への『報告・連絡・相談』、そして1番大切な何事にも【感謝】…。これからも、日々の生活に活かしたいと思います。また、当時…一緒に働いていたすべての万博スタッフ、そして…愛知万博にご来場頂いた方に、感謝申し上げます。

後藤久美さん

「そよこのいた道」

 さわやかな風を頬に感じながら、木製のスロープを登る。今年十歳になる息子が、駆け足で私を追い抜いて行く。二十年前、ここは北の森と呼ばれる場所の入り口だった。
「おかあさん、来て、早く!」
遊歩道の途中にある鐘を鳴らそうと懸命にひもを揺らしながら息子が叫ぶ。
「モリコロの鐘だって。いつからあるの? これ」
「うーん、万博のときにはまだ無かったなぁ」
答える私の声へ重なるように、からんからんと甲高い音が青空の下へ響き渡った。

 北の森は、当時の私にとってお気に入りの場所だった。多くの人で賑わうグローバル・ループから少し踏み出せば、森の緑に包まれる散歩道。自然の息吹を感じさせる工夫がいくつも凝らされていたけれど、その中でも特に、木立の間を抜けながら読み進める「そよこ」の物語が印象に残っている。
 そよこは、ソヨゴという木の赤い実だ。鳥に食べられて遠くへ運ばれ、森の土から芽を出す。しかし空は周りの大木に塞がれて日差しが届かず、なかなか成長することができない。そんなある日、嵐がやって来た。大きな雷が落ちて倒れた老木から「次はお前の時代だ」と告げられ、その言葉に背中を押されるように、そよこは立派な木へと育っていく──そんなお話だった。
 そよこが描かれたパネルの隣には、ソヨゴの実の写真が添えられていた。もの言わぬ木ひとつひとつに物語があるのだと、その一枚が気づかせてくれた。生まれた場所、周りの生き物たちとの関わり、自らの中にある生き抜く力、そして次の世代へ途切れなく続くもの。それは人間にも、私自身にも通じるものだ。
 今、息子と歩く同じ道には、よく手入れされた松が両脇に並び、季節の花が咲き乱れている。新しい景色を眺めながら、そよこの物語と、あの赤い実のことを思い浮かべる。

「暑い! アイス食べたい!」
「はいはい、あとでね」
 私のささやかな感傷など知るはずもない息子が、いつもの調子で元気に声を上げる。それを軽くあしらいながら、ジブリの大倉庫へ生まれ変わった建物を、園内を回るバスが走る道を、眺める。
 ソヨゴの木は、園内のあちこちに今も生えている。今度はこの子を連れて、初夏に咲く白い花を探しに行くのもいいかもしれない。彼にとっては初めての物語を紡ぎに、私は二十年前の思い出を辿りに。

 坂道を登りきって眼下にこいの池を見渡せば、湖畔の木々は鮮やかな新緑に彩られていた。

小林永実さん

「愛・地球博がくれた未来」

 「万博行こうか。」週末になると愛・地球博へ行く、万博開催期間中の我が家での日常でした。当時の私は小学生、世界博覧会の魅力などは理解しておらず「えー、うん。(外暑いなぁ)」と乗り気でない日もありましたが言われるがまま通う日々でした。慣れ親しんだ公園では、世界の最新技術が搭載されたパビリオンや貴重な展示、食文化の体験ができ閉園時間いっぱいまで楽しんでいたことを覚えています。中でも死海やヘナ体験など初めて知る世界の文化、飛び交う多言語の環境は私の人生の大きな刺激となり、これまでにたくさんの国を訪れるきっかけとなりました。地球温暖化が進む現在があの頃に描かれていた未来に近づけているのかはわかりませんが、ゴミを少なくする、物は長く使い続けるなどモリゾーとキッコロが教えてくれた自然を大切にする気持ちは、壊れてもアレンジして再利用する、ゴミ箱に捨てる前に本当にゴミなのか再利用はできないのか考える習慣となり今でも続けています。
 そして愛・地球博から今年で20年、現在大阪で開催されている大阪・関西万博2025の海外パビリオンでアテンダントを務めています。モリゾーとキッコロから受け継いだ“地球への愛“を大切に、今回はミャクミャクと世界中の担当者と力を合わせゲストをおもてなししています。世界博覧会のスタッフとゲスト、両方の立場で経験する万博は日本と各国の事を深く学ぶ機会になり、会場全体に溢れている魅力を多くの方に知っていただきたい気持ちでいっぱいです。愛知県からのゲストやモリゾーとキッコロのグッズを着用してきてくださる方も多く、とても心が温かくなります。閉幕を迎えるその日までたくさんの方の未来を創造する機会となれるよう全力で駆け抜けたいと思います。
 そしてまたいつの日か愛知県で万博が開催される日を楽しみにしています。

太田清子さん

「2005年愛・地球博と私の喜びの日々」

2005年長久手市(当時は長久手町)で開催された愛・地球博。その時、私は63歳。当町はベルギー王国をお世話する担当になっていた。これは我が町がワーテルロー市と姉妹都市であることもあり開催期間中、半年間、私宅はベルギーパビリオンで行われるボビンレースの巨匠や福祉の家に併設されたベルギー展示室で皆さんに案内役をするベルギー学生など入れ替わり立ち替わり我が家でホームステイを受け入れた。その他にも親戚や友人のステイもあり、それだけでも大忙しの日々だった。そのうえ、日中は会場のボランティア、夕方から夜11時頃まで駐車場のボランティア、ステイの人の食事の世話等、起床時から就寝時まで動き回る毎日、それでも心地よい疲れを喜びと感じた。期間パスポートを購入し、週4回は会場に赴き、ベルギーパビリオンではスタンプラリーの手伝いをする機会があり、ベルギー館で美味なスペシャル料理を頂いた。私宅でステイしたボビンレースの巨匠マリアさんが招待してくれたのだった。後にお孫さんから丁寧なお礼の手紙を頂いた。

また私は長久手市国際交流協会に所属し外国人に日本語を教えていた際、ドイツ館やネパール館のスタッフで教室に日本語の授業を受けに来た人々と知り合い良い待遇や良い思いをさせていただいた。いつの間にかボランティアがこんなにも楽しく、私の喜びとなり生き生きしている自分に気づいた。人生の中で私が一番燃えた時だった。期間中、沢山の外国人を手助けする機会に恵まれ喜んでもらえた。私の心が人に奉仕する喜びで満たされた。当時を懐かしく振り返り想い起こせば大変だったけど楽しかったなあ!と。その余韻があるうちに5年後の上海万博に、これまた日本語教室の中国人学習者S氏から招待を受けた。私は喜んで友人と上海万博に行った。そこで私達が有意義に過ごしたことは言うまでもないこと。愛・地球博から私が学んだことは人に仕える事こそ自分の成長の場であり、喜びであること。今でもその気持ちをずっと持ち続けて頑張っていける私でありたいと。

有元洋剛さん

「愛・地球博で出会った世界の人々」

「愛・地球博」20周年を機に、同博参加国のパビリオンを巡って集めた思い出の品々が詰まった「万博宝箱」を開いた。当時の記憶が一気に蘇る。
万博は、世界の人々に出会える千載一遇のチャンス。私は「世界の人々に逢う」をテーマに、①パビリオンの女性スタッフと会話し写真を撮る、②サイン帳にサインをもらう、③握手をする、という3つの目標を立てた。
訪れたパビリオンでは、日本語が通じ、スタッフも快く応じてくれたため、多くの女性の写真を撮ることができた。トルコやセネガルのように男性スタッフのみのパビリオンは独特の魅力があり、アルゼンチン、ドイツ、ブルガリアでは男女ペアによるタンゴや民族舞踊が印象的だった。シンガポールでは流暢な日本語を話す女性だったが、実は日本人のアルバイト学生。そこで現地の女性に代わってもらった。
2022年、ロシアがウクライナに侵攻した際、両国の写真を探すと、美しいスタッフの写真とサイン・カードが出てきた。テレビで戦況を見ながら、20年前の彼女たちとの握手の温もりを思い出し、遠くから無事を願っている。握手を交わした人は100人以上にのぼる。
万博をきっかけに、自分史の記録としてブログを開設。巻頭には「サツキとメイの家」の写真をCG加工したものを使い、日常や万博関連の記事を投稿し続けてきた。その数は3月現在2300を超えた。
20周年を記念して「100人の世界の人々と万博風景写真展」を開催を試みたが、気力・体力が伴わず断念。宝物を持ち腐れにするのが悔しい。
愛・地球博開幕当時、私は定年退職したばかりで「100%奥様孝行」を誓ったはずだったが、万博に夢中になり、その後も約束を忘れてしまった。その報いか、今や思い出話をする相手の妻はもういない。宝箱を開けても、100%寂しさが募るばかりだ。

松田みきさん

2005年の春、私の住む町に突然モリゾーとキッコロがやって来た。

町の中を駆け巡るリニモ、 空にかかったゴンドラ、 大きな観覧車。
8歳の私は自分の住んでいる町にとんでもないことが起きるのではないかと思っていた。

愛・地球博に訪れたときの衝撃は忘れない。
中に入るとそこには新しい世界が広がっていた。
何年も前に生きていたマンモス、 人間そっくりのアンドロイドのガイド。
世界中の人々が行き交い交流し、楽しい会話が聞こえ、心地良い音楽が流れていた。

気づけば夢中になっていた。

その自然の中でたくさんの経験をさせてもらった。

毎日どこかで開催されるイベントは、様々な国の文化に触れることができ、 実際に参加することが出来た。 特にどんな国の人も、お年寄りでも子供でも楽しめる音楽イベントが大好きだった。

私たちは、会場にある大きな芝生広場でよく寝そべりながら休憩した。

その広場には大きなスクリーンがあり、 芝生にいる人の様子がランダムで映し出される仕組みになっていた。

芝生でゆっくりしていると、突然母にすごい勢いで名前を呼ばれた。

驚いてスクリーンを見ると、そこには画面いっぱいに私の顔が写し出されていた。
なんだか嬉しくて私は笑顔になった。
気になって周りを見渡してみると、同じように芝生の上に座っている人も笑顔になっていた。

自分の笑顔がみんなにも伝わったような気がした。
その日は私の9歳になる誕生日だった。

私が愛を感じる瞬間はいつでも人との繋がりの中に感じる。
抱きしめられた時。
ありがとうと言われた時。 人から笑顔をもらった時。
それは20年前から変わることはない。